第15回本公演 Re:born project vol.7+8
『ボレロ -或いは、熱狂。』 振付・構成・演出:北尾亘インタビュー

interview & text 折田侑駿(文筆家)


  ■舞台上と客席の境界を超えられたらなと


・「Re:born project」の一つとして『或いは、熱狂。』を選んだ理由

──本格的な稽古が始まりましたが、手応えはいかがでしょう?
北尾:もともとは短期集中で行う想定でいたのですが、当初の予定よりも一ヶ月半ほど前倒しで稽古をスタートさせました。 その理由としては、僕と『ボレロ』の関係だけでなく、ダンサーのみんなとともに『ボレロ』との関係を深めていきたかったから。 これにはどうしても時間が必要で、これまでどおりのクリエーションの方法だと、たどり着くべきところまで到達できないと感じたんです。 ゆるやかなペースで稽古を重ねてきましたが、ダンサーの準備はもう十二分に整っている印象があります。

──たしかに、あの『ボレロ』を扱うにはそれ相応の時間を必要とするのでしょうね。
北尾:本作の裏コンセプトとしてあるのは、『ボレロ』を主題にするわけではないということです。 あくまでもこのクリエーションは、『或いは、熱狂。』という作品で培ってきたものと、不朽の名曲である『ボレロ』とが重なり合うビジョンが見えたから。 『ボレロ』のために踊るような作品にすることは避けたいという思いを掲げてクリエーションをはじめました。 この意図として、歴史や文脈などから『ボレロ』を掘り下げていくのではなく、あくまでも現代人的な感覚で純粋に“楽曲”として耳から取り入れて、それをどのように身体に落とし込み、作品に反映させられるか、というものがあります。 なので軽率だと受け取られてしまうかもしれませんが、何年版のどのバージョンの『ボレロ』を扱うべきかといったリサーチはしていません。 でもその分、僕たちの身体をとおして、モーリス・ラヴェルによる『ボレロ』という楽曲そのものと向き合う時間を長くしたんです。 曲と身体の関係性を深めることに重きを置くために。大切にしているのは、『ボレロ』に踊らされないようにすることと、『ボレロ』に誠実に向き合うこと。『或いは、熱狂。』という作品と『ボレロ』の関係はフラットで、僕がかつて手がけたあの作品が、『ボレロ』へと導いてくれた感覚があります。

──そもそもなぜ、第15回本公演にして過去作を再創造する「Re:born project」として『或いは、熱狂。』を選んだのでしょう?
北尾:我々の持っている一時間に満たない最後のレパートリーが『或いは、熱狂。』だからです。 なのでこれを『ボレロ -或いは、熱狂。』として長編化させたら、次の「Re:born project」ではさらに長編化することになります(笑)。 第14回本公演ではもう一作品をかけ合わせ、長編作品として再創造しました。そしてその延長線上に残されていたのが『或いは、熱狂。』なんです。 ただ、これをそのまま長編にするのではなく、『ボレロ』のような強大な楽曲とかけ合わせてみたかった。“銀河系でのセッション”という心持ちです(笑)。 ですがもともと「Re:born project」の中で大々的にクラシック曲を扱う展望はありましたよ。

──これが『ボレロ』との、そしてBaobabとクラシック曲との、本格的なファーストコンタクトになるわけですね。
北尾:ええ。そして、『或いは、熱狂。』を選んだ理由はもう一つあります。 2016年の初演は、Baobabが主催するダンスフェス「DANCE×Scrum!!!」でのことでした。 あの当時、フェスにふさわしいポップでエンタメ性の強い作品にするか、『或いは、熱狂。』のようなソリッドな作品にするのかでとても悩みました。 あの頃のBaobabであれば、当然のように前者を選んでいたはず。でも、なぜか選べなかった。それはこの国に戦争の気配が近づいていることを日常生活レベルで感じ取っていたからです。 でもそういったことを誰かと話せずに悶々としていて、とうとうその感情に蓋ができなくなった段階に『或いは、熱狂。』が誕生しました。 いま作品をとおして訴えなければ、何か大切なものを損なってしまう気がしたんです。その結果フェスにもかかわらず、「人とヒトの“競争”」を主題とした作品が生まれました。 もちろん世界規模で見れば戦争はつねにどこかで起こっていて、あれから7年の間に世界情勢は目まぐるしく変化し、肌感覚レベルで戦争を捉えるようになりました。 なぜあの頃の自分は誰かときちんと話をしなかったのだろうかと考えたときに、話せなかったからこそ、『或いは、熱狂。』を作ったのだと思い至りました。ダンサー/振付家として、ちゃんと布石を置いていたわけです。 こういった流れから、使命感として「いまやらねば」と決意した経緯があります。

・Baobabが観客に提示するもの

──『ボレロ』のあのクレッシェンドには、「個/孤」が何か大きなうねりに飲み込まれていくようなイメージがあります。
北尾:僕は仰々しくて晴れ晴れとした楽曲がどうやら好きみたいなんですよね(笑)。だから『ボレロ』をいつか扱ってみたいという思いがありました。 この曲には人を踊らせる力がある。Baobabの公演で楽曲をセレクトする際に重要視してきたのは、身体が反応する曲なのかどうかです。それでいて、身体が楽曲の持つ世界観の添え物になってはならないとも考え続けてきました。楽曲の世界観に作品やダンサーが飲まれてはならない。 これを一つの指標にしています。だから今回はついに、『ボレロ』という強大な存在に挑めるだけの作品のコンセプトやテーマに行き着いたというわけなんです。

──そのコンセプトやテーマは、本作に携わる全員が共通認識として持っているものですか?
北尾:デリケートなものを扱っている部分もあるので、 みんなに同じマインドになってほしいわけではありません。 このことを前提に、『或いは、熱狂。』から『ボレロ -或いは、熱狂。』に至るまでにどんなプロセスがあったのかを開示し、僕自身の考え方をシェアしています。 それに対して個々がどんな思いを抱くのかは、それぞれでいいですし、必要があればディスカッションをしています。 ちゃんと一人ひとりが思考して、各人の中で曲げてはならないものを大切にしながら舞台に立てることを心がけています。 本作は原点になっている『或いは、熱狂。』の構成や振付を踏襲しています。だからこそ、各シーンがどのようにして生まれたのかを丁寧にシェアしているんです。

──誰もが盲目的に一方向を向き始めてしまったら、この作品のテーマに逆行していきますよね。大衆の中にはいろんな考え方を持っている人たちがいて、それぞれが向きたい方向を向いている。それが健全なのかもしれません。
北尾:そういったところがドキュメンタリーのようにも受け取ってもらえたら、この作品は大成功なんじゃないかと思います。とにかく『ボレロ』の楽曲紹介のようになってはいけません。 バレエ演目として、すでにある種の至高の域に達していたりもするわけですからね。Baobabの場合は大きなうねりから個々がはみ出していく。その姿が観客の方々に対する何かのテーゼになればなと。

──まさに新しい「熱狂」をBaobabが生み出していく。
北尾:舞台芸術って、人を豊かにするものだと僕は信じています。そしてすべてが一回性で、一つの作品の公演期間であっても二度と同じものは生まれない。 そんな場で、いろんな文脈をたどってきた人々が顔を突き合わせ、みんなで同じ時間を過ごしますよね。これって作り手としてすごく健康的だと感じるんです。 クリエーションの時間にさまざまな試みをしていくうちに演者同士が親密な関係を築き、上演時にはそれがお客さんにまで拡がっていく。僕はこの関係性こそが世界を変えられるのだと信じたい。 そこで『ボレロ』という強大な存在の肩を借りて、船出をしてみたんです。

・『或いは、熱狂。』から『ボレロ -或いは、熱狂。』へ

──ここまでのお話からいろいろと見えてきましたが、初演版からの具体的な変化は長尺化以外に何があるのでしょう?
北尾:うーん……『ボレロ』を抜きにしてお話しするのは難しいかもしれませんね。やっぱりすべては連動していますから。 ただ、『或いは、熱狂。』は「人とヒトの“競争”」を描いただけで作品が終わっていたんですよね。でも今作では、その前の段階や、あるいは“競争後”までも描いている。 そういう意味では圧倒的に違う作品だといえるかもしれません。初演版で描いていたのは、一つの大きな事象の断片に過ぎない。本当はその前後があるし、この文脈こそが目を向けるべき重要なところ。 出演者は変わりましたが、彼・彼女らの身体は振付をとおしていまもなお作中に息づいているんです。

──“たまたまこの場にいないだけ”だということですね。今回のメンバーはどのような流れで決まっていったのでしょうか?
北尾:Baobabのメンバーも「Baobab trial」のメンバーもどんどん力をつけているので、お声がけしたダンサーの方々の数は普段に比べて少ないですね。 今作では集団性のバランスをかなり意識しました。ダンスのバックボーンをはじめとする個々の属性のバランスです。あとはクリエーションを最適に進められる方なのかどうか。 ここでいう“最適”とは、必ずしも僕のイメージに順応することができるかどうかを指すものではありません。どの作品でもそうですが、今作は特に「イエスマン」の集まりだと危険。 すでにお話しした“一人ひとりが思考する”ということにも繋がってきます。トップダウン的な集団にならないよう、とにかく対話ができる人々にお声がけしました。

──いわゆる“演劇畑”の方がいませんよね。
北尾:はい、これは最初から決めていました。今作には楽曲の規律があったり、膨れ上がっているイメージがある分、身体で応えてくださる方々の力が必要だったんです。 僕は人それぞれの身体に固有の美しさがあると思っています。それが舞台に上がることで作品が成り立ちもする。でも今作の場合、僕にとってのその美しさがお客さんに伝わらなかったらおしまいだと思ったんです。 すでにお話ししているように、『ボレロ』に拮抗できるダンサーでなければなりませんからね。僕自身はBaobab作品において演劇的な要素を担ってくださる存在が大切ですし大好きです。 でも今作ではダンスそのものに対する解像度を上げなければならなかった。でなければ『ボレロ』に飲まれてしまいます。その点、今作で集まってくださったメンバーはダンスのプロですから。

──とはいえ、稽古の様子を観ていて“演劇的なもの”を感じます。これには自覚的ですか?
北尾:Baobabが体現する“演劇的なもの”にかんしては自覚的です。というより、“演劇的なもの”にならざるを得ない、といったほうが正確かもしれません。 それはやはり僕個人が演劇に携わっている時間が圧倒的に多いから。演劇作品から得る影響は大きいですし多いです。僕の“作り手としての師は演劇”だとさえ思っています。 もちろん、僕はダンス作品が大好きですし、ダンスからたくさんの感動を得てきました。でも一般的に踊る行為って、日常生活において話す行為などと比べると二次的なものなんですよね。 つまり、ダンスは現代人の日常から縁遠いもの。そうなるとどうしても、日常の延長線上にありつつ、舞台上と客席の境界を超えていくものが必要になる。

──つまりそれが、北尾さんの取り入れる“演劇的なもの”だと。
北尾:そういうことです。それから僕は演出論などにかんしても、いろんな演出家の影響を受けています。振付家として参加させていただくたびに発見の連続ですからね。 本番に立ち会うごとに還ってくるものがたくさんあります。それを僕はBaobabの作品にあらゆるかたちで導入しているんです。今回も舞台上と客席の境界を超えられたらなと。

──この『ボレロ -或いは、熱狂。』はBaobabにとってどのように位置づけられる作品になりそうでしょうか?
北尾:15回目の本公演なので、節目だとも感じています。それと同時に、ようやく新たな領域にまで歩を進められそうな気がしている。そんな作品です。 こうなることを構想の段階から望んでいたので、本作はこれから先のBaobabに繋がっていくような、革新的な一面を持った作品になるのだと思います。そうした願いも込めて。


文責:Baobab