帰ってきた『アンバランス』

筆者:森田余白

Baobab旗揚げの礎となった『アンバランス』は、北尾亘が学生時代の2010年に初演。
その初演を観ていた筆者が、10年の時を経て2021年の『アンバランス』と再会した。
北尾亘へ、そしてこれから『アンバランス』に出会う観客への手紙として本エッセイを執筆。


-目次-
Baobabの衝撃ーコンテンポラリーダンスとの出会い(2009年12月  大学の教室)

開かれた作品と創作スタイルーBaobab作品の魅力を生むもの(2021年6月  Baobab稽古場)

引き裂かれる自己ー初演ver.におけるアンバランスとは(2010年1月  大学内の劇場)

帰ってきた『アンバランス』ー過去への応答と未来への問い(2021年7月  Baobab稽古場)


  Baobabの衝撃ーコンテンポラリーダンスとの出会い(2009年12月  大学の教室)

 ダンスカンパニーBaobabを知ったのは大学生のときだ。主宰の北尾亘さんと僕は同じ大学の出身で、たまたま同じ講義を受けていた。ある日の講義の終わりに北尾さんたちが学内で行われる公演の宣伝をはじめた。それがBaobabとの出会いだった。公演は6組のダンス作品を上演するもので、そのうちの1組がBaobabだった。
 それまでコンテンポラリーダンスというものを観たことがなかった僕は、せっかくだから観られるものは観てみようと思い、教壇の前で宣伝する北尾さんたちからフライヤーを受け取った。そのときに予約をしたのか、後日予約をしたのかは覚えていない。が、ともかく僕は学内の劇場で行われるその公演を観に行った。そのときに上演された作品が当時初演の『アンバランス』だったのだ。
 果たして僕は衝撃を受けた。見慣れない動き、声、同時並列で展開される異なった振り付け。一般的にダンスと聞いてイメージされる光景は、そこにはなかった。これはダンスなのか? いや、それは確かにダンスだった。大地を踏みしめゆくリズミカルな群舞の足音は、僕の身体と共鳴し、その深部にある感覚を踊らせた。


  開かれた作品と創作スタイルーBaobab作品の魅力を生むもの(2021年6月  Baobabの稽古場)

 あの体験から10年以上、僕はBaobabを観続けているが、Baobab作品の魅力のひとつはそこにあるように思う。Baobabの作品は、観ている最中から観客が自覚できるくらいのレベルで、観客の身体に影響を与える。じっとして観ている観客の身体を、その内部を踊らせてしまう。僕のようにコンテンポラリーダンスを見たことがなかった人間の身体さえも。Baobabの作品にはそういう力がある。
 これは踊らないひとやダンスを観ないひとにも作品が開かれていることを意味している。なぜこのような開かれ方が可能になるのだろうか。そこには北尾さんの創作スタイルが強く関係していると僕は思う。
 北尾さんは稽古のなかで問いを立て、さまざまなワークを行い、それぞれの出演者たちが発見した身体感覚や感情を対話によって共有しながら作品を作り上げていく創作スタイルをとっている。稽古の様子を見ているとダンス作品の稽古をしているというよりは、哲学対話をしているんじゃないかという印象を受けるほど、入念な対話がなされていくのだ。
 他者と共にあること、共に考えること、北尾さんはそれを非常に大事にしている。おそらくはそれが開かれた作品が生まれることを可能にしているのだろう。さらには、作品が開かれていることによって観客の身体もまた開かれてゆくことになる。こうして、作品あるいはダンサーと観客を繋ぐ回路ができあがるわけだ。


  引き裂かれる自己ー初演ver.におけるアンバランスとは(2010年1月  大学内劇場)

 話を『アンバランス』初演ver.に戻して、あのとき観たものをもう少し言語化してみよう。初演ver.におけるアンバランスとはなんだったのだろうか。それは自己のふたつの側面に引き裂かれそうになる危うさのことだったのではないか。そのふたつとは、自己の交換可能性と交換不可能性である。
 具体的なシーンに少し触れてみよう。冒頭のシーン、ダンサーたちが複数の列を作って並んでおり、最前列と後列のダンサーがまるでパズルのように次から次へと入れ替わっていく。このパズルのような入れ替わりは、交換可能性の象徴として見ることができる。
 また一方では次のようなシーンもある。一筋の光の道を綱渡りのようにして歩いていき、向こう側に到達したダンサーがそこにいた別のダンサーとカップルになるというシーンだ。こちらは交換不可能性を象徴するシーンとして考えられる。多くの場合、恋人というのは「あなたでなければならない」という存在だからだ。
 しかし、そう思ったのも束の間、続くシーンでカップルの片方が一方的に別れを告げ、別の人と新しいカップルになってしまう。交換不可能だと思っていた自己があっさりと交換可能な存在へ反転してしまう瞬間がやってくるのだ。
 自らの交換可能性と交換不可能性がめまぐるしく入れ替わり、引き裂かれそうになること。それをアンバランスとして捉えたのが初演ver.だったのではないかと僕は考えている。


  帰ってきた『アンバランス』ー過去への応答と未来への問い(2021年7月  Baobabの稽古場)

 さて、その『アンバランス』が10年以上の時を経て帰ってきた。今回の『アンバランス』は「AI×ダンス」と銘打たれたSF作品として生みなおされている。第12回公演『ジャングル・コンクリート・ジャングル』にもAIが出てくるシーンはあったが、今作はそれをさらに深掘りするようなものになっているといえるだろう。
「この空間は、私の手によって最適なバランスで統治されました」これは作品冒頭のAIの言葉である。AIによって統治された空間。そのなかでダンサーたちが踊るところから作品は始まる。
 AIに人間はどう見えているのだろう。おそらくは「人間」という情報にしか見えていないのではないか。個々の顔はなくなり、ただひとかたまりの「人間」という情報に落とし込まれてしまっているのではないか。だとすれば、前述したような交換可能性と交換不可能性の問題さえ、ここでは消失していることになる。AIの見る「人間」にはもはや引き裂かれる自己さえないのだ。
 しかし、本当に人間は情報だけに還元しうるものなのだろうか。そんなはずはない。今作を観るひとびとはそれを明確に感じることになるだろう。
 たとえば、今作にはAIがダンサーに対して単純な単語(fall、spinなど)を指示として出すシーンがある。ダンサーはAIの指示に合わせて踊っていくのだが、同じ指示を受けていながら、そこに立ち現れてくる個々の身体はそれぞれまったく違うものだ。
 AIによってバランスは調整されている、統治されている。そこではひとびとはひとかたまりの情報としての「人間」になっている。にもかかわらず、身体を動かせば途端にそこには個としての人間が立ち現れてくる。それはつまり「バランスを調整される」=「最適化」されることによって、僕ら個人個人の生がこぼれ落ちてしまうということなのではないか。
 AIという新たな出演者の採用によって、北尾さんは個々の身体の面白さ、個々の生の不思議さ=個々の交換不可能性に改めて光を当ててみせたのだ。これは初演verの引き裂かれる自己に対する10年(以上)越しの応答になっているように僕には思える。
 しかし、今作は過去への応答というだけにはとどまらない。北尾さんのまなざしは、さらにその先を見ている。そのまなざしの行方を追ううちに、観客は今作のなかに問いを発見し、北尾さんと対話することになるだろう。北尾さんがつくる対話の場、その最後の相手は僕ら観客である。踊るひとも踊らないひとも、ダンスを見慣れているひとも見慣れていないひとも、その対話を味わってみてほしいと思う。

『アンバランス』の初演Ver.『ジャングル・コンクリート・ジャングル』の当日パンフレットにはそれぞれ次のような言葉が書かれている。

      誰も綱渡りができなくて
    「サーカスは崩壊しました。」
    それでもこうして、我々は共にいる。
    (『アンバランス』初演Ver.)

      風を待っている。新しい風を、渇望している。
    (『ジャングル・コンクリート・ジャングル』)

  この1年で共にいることは揮発しかかっている。風を感じにくい身体になってしまっているようにも思う。新しい風を感じられるようになるために、共にいるための開かれた身体をよみがえらせるために、いま『アンバランス』という作品が必要なのではないだろうか。


文責:Baobab